35歳サラリーマン、毎朝満員電車で死にたくなる…残業地獄と家族を失う前に見た“最後の選択”(2)

健一はエレベーターのボタンを押した。1階。指が震えていた。

後ろから若い社員たちが慌ただしく走ってくる。会議室に向かうのだろう。

部長の電話はもう三回目になっていた。彼は電源を切った。生まれて初めて、会社からの連絡を無視した。

外に出ると、予感通り雨が降り始めていた。傘など持っていない。スーツの肩がすぐに濡れていく。駅に向かう足が、いつもと違う方向へ自然に曲がった。

新宿のバーへ向かう道。数日前、あの男と出会った場所だ。

雨脚が強くなる。信号待ちで立ち止まると、スマホが震えた。美香からだった。
「拓也が熱を出したみたい。早く帰ってきて。」胸が締め付けられた。健一は返信しようとして、指を止めた。

何を書けばいい? 「今、会社を飛び出してきた」と? それともまた「ごめん、遅くなる」と嘘をつくのか。どちらも自分をさらに惨めにさせるだけだと思った。

バーに着いたとき、すでに全身びしょ濡れだった。

店内は薄暗く、昼間からカウンターに数人の客が座っている。

あの男はいた。

同じ席で、同じようにウイスキーを傾けていた。まるで健一が来るのを待っていたかのように。

「来たな」
男は振り返らずに言った。声は低く、静かだった。健一は隣に座り、震える手でウイスキーを注文した。
「あなたは誰ですか? どうして僕のことを…」

男は小さく笑った。
「名前なんてどうでもいい。昔、君と同じ場所にいた男だと思えばいい。35歳で、毎朝死にたいと思いながら電車に乗って、夜は家族の顔も見ずに寝落ちする。あの頃の俺だよ。」

健一はグラスを握りしめた。
「昨日、夢を見ました。トンネルの中でずっと走ってるのに、出口がない夢。息ができなくて…目が覚めたら、本当に心臓が痛かったんです。」

男はゆっくりと頷いた。
「それは『限界の合図』だ。体が『もう無理だ』って叫んでる。俺は無視して、三年後に倒れた。心筋梗塞。会社は見舞いに花だけ送ってきた。妻は離婚届を置いて出て行った。息子は今、どこで何をしてるかわからない。」

雨の音が窓を叩く。店内のBGMが妙に遠く聞こえた。

「じゃあ、どうすればいいんですか? 辞めたらローンはどうする? 拓也の学費は? 美香は俺がいないと…」

男はグラスを置いた。
「全部失う覚悟ができるか? 失うことで初めて手に入るものがある。君はまだ、失う覚悟ができていない。でも、時間はもう少ないぞ。体は正直だ。」

健一は黙った。ポケットの履歴書の下書きが、重く感じられた。男は立ち上がり、濡れたコートを羽織った。


「今日はここまでだ。また会うかは、君次第だ。」

「待ってください! 名前くらい…」

男は振り返らずに言った。
「名前を覚えても意味がない。俺はもう『過去の自分』だからな。」

男が出ていった後、健一は一人で残った。ウイスキーが喉を通るたび、胸の奥が熱くなった。

スマホを見ると、部長からの着信履歴が12件。美香からは「拓也の熱が上がってきた」のメッセージだけ。

彼は会計を済ませ、雨の中を歩き出した。家に帰るべきか、会社に戻るべきか、それとも…。

アパートに着いたのは午後3時を回っていた。

美香が驚いた顔で玄関に出てきた。
「どうしたの? 会社は?」

拓也は布団で眠っていた。小さな額に手を当てると、確かに熱い。

健一はスーツのまま息子の横に座り込んだ。
「今日は…早めに切り上げた。」

美香は何も言わなかった。ただ、黙って麦茶を淹れてくれた。

その沈黙が、健一には痛かった。これまで何度も「今日は遅くなる」と言ってきた自分が、急に早く帰ってきたことへの不信と、ほんの少しの安堵が混じっているのがわかった。

夜になった。拓也の熱は少し下がった。美香が洗い物をしている横で、健一は初めて本音を零した。
「俺、もう限界かもしれない。このままじゃ、家族も自分も壊してしまう。」

美香の手が止まった。
「…辞めるの?」

「わからない。でも、このままじゃダメだ。拓也に『お父さんいつもいない』って言わせたくない。」

美香は振り向いた。目が少し赤かった。
「私も怖いよ。急にそんなこと言われたら。でも、健一が倒れたらもっと怖い。…一緒に考えよう。」

その夜、健一は久しぶりに深く眠った。夢の中で、またトンネルが現れた。でも今度は、遠くに小さな光が見えた気がした。

翌朝。目覚ましより早く目が覚めた。美香と拓也はまだ寝ている。

健一はそっと会社にメールを送った。「体調不良で本日休み」。送信した瞬間、胃がキリキリと痛んだ。15年間で初めての無断に近い休みだった。

スマホがすぐに鳴った。部長だった。彼は出なかった。

代わりに、転職サイトを開いた。指が止まる。35歳、営業経験15年。年収ダウンは確実。家族三人で暮らせる仕事など、あるのか。

午後、近所の公園で拓也と遊んだ。久しぶりの父子の時間。拓也は笑顔でブランコに乗っていた。


「お父さん、今日も仕事?」

「今日はお休みだ。」

「やった! また明日も休み?」

健一は笑えなかった。明日、どうなるかわからない。

夕方、男から電話がかかってきた。番号は非通知だった。
「どうする? もう一歩、踏み出せるか?」

健一は息を飲んだ。
「あなたは本当に、俺の未来を見てるんですか?」

男は静かに答えた。
「未来じゃない。『選択の分岐点』だ。今日、君が何を選ぶかで、五年後の自分が決まる。俺みたいになるか、それとも…」

電話が切れた。

その夜、健一はリビングのテーブルで履歴書を書き直していた。美香が横でコーヒーを淹れながら見守っている。外ではまた雨が降り始めていた。

送信ボタンを押すか、削除するか。指が、震えていた。会社に辞表を出すべきか。
それとも、もう一度、あの満員電車に乗って、すべてを飲み込むべきか。拓也が寝息を立てている部屋の灯りが、廊下から漏れている。
健一は深く息を吸い、ゆっくりとマウスを動かした。画面に表示されたのは…。(続く)

※この物語はフィクションです。