35歳サラリーマン、毎朝満員電車で死にたくなる…残業地獄と家族を失う前に見た“最後の選択”(1)

東京の喧騒に飲み込まれたような朝だった。佐藤健一はいつものように満員電車に揺られながら、ぼんやりと窓の外を見つめていた。

35歳。営業部第二課の主任。肩書きだけ聞けば悪くないが、現実は違う。毎朝7時前に家を出て、夜は11時を回るのが当たり前。

妻の美香とは最近、ろくに会話もしていない。息子の拓也は小学生になり、父親の顔をほとんど覚えていないのではないかと思う日もある。

「佐藤くん、今日のプレゼン資料、まだ上がってないよね?」上司の田中部長の声が、朝イチの会議室で響いた。健一は慌てて頷きながら、昨夜徹夜で仕上げたファイルを投げ出した。

部長はため息をつき、赤ペンで何箇所も修正を入れていく。数字の並びが、健一の人生そのものを嘲笑っているように見えた。

入社15年目。入社当時は「この会社で新しい価値を生み出したい」と胸を張っていたのに、今はただ、数字を合わせるための歯車に過ぎない。

昼休み、会社の屋上で煙草を吸う。隣にいた後輩の山田が、ため息交じりに言った。「先輩、最近疲れてません? 俺、もう辞めようかと思ってますよ。ブラック企業ってレベルじゃないですよね」健一は笑って誤魔化した。

辞めたい。自分も何百回思っただろう。でも、住宅ローン、子供の教育費、妻の期待。すべてが鎖のように絡みついて、逃げられない。

夜の飲み会では、上司の愚痴を聞きながら笑い、部下の愚痴を聞きながら慰める。自分の愚痴を吐く場所など、どこにもない。

家に帰ると、美香が冷めた夕飯を電子レンジで温め直していた。拓也はもう寝ている。健一はビールを飲みながら、テレビのニュースを眺める。画面では華やかなスタートアップの若手社長が「ワークライフバランス」を語っていた。ああいう世界は、きっと自分とは無縁だ。「ねえ、最近遅いよね。拓也、寂しがってるよ」美香の言葉に、健一はただ「ごめん」と呟くしかなかった。謝ることしかできない自分が、情けなくて仕方ない。

ベッドに入っても眠れない。頭の中を数字とメールの文面が駆け巡る。心臓が時折、変な鼓動を打つ。

医者には「ストレス性だ」と言われたが、休む暇などない。ある金曜日、いつもより早く仕事が片付いた。

珍しく7時に会社を出られた健一は、久しぶりに新宿の飲み屋街をぶらついた。ネオンが目に染みる。昔、大学時代の友達とここで夢を語り合ったことを思い出す。あの頃はまだ、無限の可能性がある気がしていた。

バーに入り、ウイスキーを注文する。隣の席にいた中年男性が、ふと話しかけてきた。スーツ姿だが、どこか垢抜けない雰囲気。「君もサラリーマンか。毎日、頑張ってるね」男の目は、妙に深かった。

健一は酔いの勢いで、自分の愚痴を少しだけ零した。会社のこと、家族のこと、失われた時間のこと。男は静かに聞いていた。「わかるよ。俺も昔、同じだった。でも、ある日、決断したんだ」男は名刺を出さなかった。ただ、「明日、会社を辞めてみないか?」とだけ言った。

冗談かと思ったが、目は本気だった。健一が笑うと、男は立ち上がり、「君の選択だ。続きは自分で決めろ」と言い残して去っていった。

その夜、健一は夢を見た。真っ暗なトンネルの中で、出口が見えない。走っても走っても、同じ場所。息が苦しい。目が覚めると、汗びっしょりだった。

朝の電車の中で、男の言葉が頭から離れない。

月曜日。いつものデスクに座り、メールを開く。部長から新プロジェクトの指示が来ていた。納期は3週間後。部下の山田が、辞表を提出したという噂が流れていた。

健一は自分の引き出しを開け、隠してあった履歴書の下書きを取り出した。白紙の部分が多い。書くべきことなど、何があるというのか。

昼休み、屋上で一人、煙草に火をつける。

携帯が震えた。美香からだった。「拓也が学校で『お父さん、いつもいない』って泣いたよ」。短いメッセージ。健一の指が止まる。

その時、視界の端に、あのバーの男が立っているような気がした。振り返るが、誰もいない。風が強く吹き、煙草の灰が舞う。

健一は深く息を吸った。会社に戻るか、それとも。足が、動かない。会議の開始時間まで、あと15分。

スマホの画面に、転職サイトの広告が表示されていた。クリックしようとした指が、震える。このままでは、壊れてしまう。壊れる前に、何かを変えなければ。

しかし、変わるということは、すべてを失うかもしれないということだ。家族、安定、積み上げてきたもの。すべて。健一はゆっくりと屋上のフェンスに寄りかかった。下の街並みが、遠くに見える。人は蟻のように小さく、忙しなく動いている。

あの中に、自分と同じ苦しみを抱えた人間が、何万人といるのだろう。突然、携帯が鳴った。部長からだった。「佐藤、どこだ? 緊急会議だぞ!」健一は電話に出なかった。

初めて、出なかった。風が強くなる。空に、灰色の雲が広がっていた。雨が降りそうだ。彼は履歴書の下書きをポケットにしまい、ゆっくりとエレベーターに向かった。行き先は、1階か、それとも。(続く)

※この物語はフィクションです。