東京の喧騒に飲み込まれる朝は、いつもと同じだった。山田太郎、38歳。総合商社の中堅社員として、毎朝7時15分の満員電車に揺られる。吊革につかまりながら、スマホのニュースをスクロールする。今日も株価は微妙に下がり、海外情勢は不安定。隣のサラリーマンが肘を突き入れてくるが、文句を言う気力もない。心の中でただため息をつく。
会社に着くと、まずはデスクの片付けから。昨夜の残業で散らかった資料を整え、コーヒーを淹れる。同期の佐藤が隣の席でため息をついた。「山田、昨日の提案書、部長にボロクソ言われたらしいぞ。『もっと数字で語れ』だってさ」。太郎は苦笑いした。パワポのスライドを100枚超えても、結局上司の好み次第。給料は上がらないのに、責任だけ増えていく。
30代後半ともなると、部下の面倒も見なければならず、板挟みだ。午前中の会議は地獄だった。取引先とのオンラインMTGで、画面越しの上司が延々と自慢話を始める。太郎はカメラをオフにし、メモを取るふりをして実はネットショッピング。ワイシャツのボタンが取れかかっているのに気づき、慌ててAmazonを検索する。
昼休みは同僚と近くの牛丼屋。並んでいる間に雨が降り出し、傘を忘れたことを後悔。佐藤が「俺らみたいな中年サラリーマン、雨に打たれて牛丼食うのが似合うよな」と笑う。カロリー過多の食生活、健康診断の結果が心配になるが、今日もビールは飲まずに済ませた。
午後になると、突然の急な指示が飛んでくる。「山田君、今日中にこの資料まとめて」。部長の机の上には山積みの紙。残業確定だ。同期入社の女性社員・鈴木美香が通りかかり、「お疲れ。飲みに行かない?」と誘うが、断る。
家に帰れば小学生の息子がゲームばかりで、妻は「最近会話少ないよね」とため息。週末は家族サービスでショッピングモール巡り、でも疲れ果ててソファで寝落ちするのが常。結婚15年目、情熱はとっくに冷め、ただの共同生活だ。
そんな日常が続くある日、太郎は珍しく早く帰れた。地下鉄のホームで、いつものようにスマホを見ていると、奇妙な男に声をかけられた。スーツ姿だが、ネクタイが派手すぎる中年男。「山田太郎さんですね?」。知らないはずの名前を呼ばれ、太郎は警戒した。
「誰ですか?」。男はニヤリと笑い、小さなUSBメモリを差し出した。「これ、貴方の会社が隠している『プロジェクトX』の資料です。興味ありませんか?」。
プロジェクトX? 聞いたこともない。太郎はとっさに受け取り、男は人混みに消えた。家に帰り、妻が寝静まった後でノートPCに挿してみる。中身は大量のファイル。社内秘の取引記録、海外子会社への不正送金疑惑、そして最後に一枚の写真。そこには、若い頃の自分と、知らない女性が写っていた。日付は15年前。記憶にない。
翌朝、会社でいつも通り出勤するが、胸騒ぎが止まらない。部長が妙に上機嫌で「山田、君に大事な任務がある」と声をかけてきた。内容は突然の海外出張。シンガポール支社への短期赴任。理由は「君の英語力と経験がぴったりだ」。でも太郎の英語は挨拶程度だ。
USBのことが頭をよぎる。空港に向かうタクシーの中で、太郎はUSBをもう一度確認した。ファイルの一つに、自分の名前が何度も出てくる。15年前の事故死とされた先輩社員の調査記録。そして「山田太郎を監視せよ」という指示。心臓が早鐘のように鳴る。誰が、何のために?シンガポールに着いた夜、ホテルでビールを飲みながら考える。
家族に連絡を入れたが、妻の声はいつもより冷たかった。「早く帰ってきてね。でも、ゆっくりでいいよ」。何か隠しているような響き。
翌日のミーティングで、支社長が意味深に微笑んだ。「山田君、ようこそ。君の『本当の仕事』が始まるよ」。その言葉の直後、ホテルの部屋にノックが響いた。ドアスコープを覗くと、昨日の男が立っている。
手に持っているのは、銃のようなもの…。
太郎は息を飲み、スマホを握りしめた。逃げるか、開けるか。あるいは、このすべてが自分の妄想か。外は熱帯の夜風が吹き、遠くでサイレンが鳴っている。続きは、まだ誰にもわからない。
出張初日の朝、太郎は支社ビルに入った。近代的なガラス張りの建物だが、空気は重い。
デスクに案内されると、隣の席の現地採用社員が小声で囁いた。「山田さん、気をつけて。前の日本人は突然いなくなったよ」。
心臓が跳ねる。USBのファイルにあった「失踪者リスト」の中に、その名前があった。
昼休み、近くのホーカーセンターで海南鶏飯を食べながら、佐藤にLINEを送ってみた。「何か変なこと起きてないか?」。返事はすぐに来た。
「部長が昨日からお前を探してる。『山田の個人ファイル見せろ』って」。個人ファイル? そんなもの見たこともない。
夜、ホテルに戻ると部屋が荒らされていた。スーツケースが開けられ、USBはなくなっていた。
しかし、太郎は賢かった。データを自分のクラウドにバックアップ済みだった。ファイルを開くと、新たな更新があった。日付は今日。
「山田太郎、覚醒の可能性80%」。
覚醒? 何の話だ。次の日、支社長との個別ミーティング。部屋に入ると、壁に掛けられた絵画の裏から、小さなカメラの光が見えた。「山田君、君は15年前に『選択』をしたはずだ。忘れたのか?」。支社長の目が鋭い。太郎は必死に記憶を掘り起こす。
15年前、大学卒業直後、入社試験の前夜。飲みすぎて記憶が飛んだ夜があった。あの夜、何か大事なことをしたような…。
突然、スマホが震えた。未知の番号から。
「今すぐ逃げろ。彼らは君を消す」。
声はあの男のものだった。太郎は咄嗟に部屋を飛び出し、エレベーターに飛び乗る。1階ロビーで見知らぬスーツの男たちがこちらを見ている。心拍数が上がる。サラリーマン生活で培った察する力が、今、命を救おうとしていた。
外に逃げ出し、チャンギ空港近くの路地を走る。汗だくのワイシャツ、埃まみれのスラックス。いつもエレベーターでしか動かない体が悲鳴を上げる。でも止まれない。タクシーに飛び乗り、「Orchard Road」と告げる。人気の繁華街で一旦身を隠すつもりだ。
そこで出会ったのは、日本人観光客のふりをした女性だった。鈴木美香に似ているが、目が違う。「山田さん、ようやく会えた」。彼女はUSBの複製を持っていた。「私は君の『パートナー』。
15年前、君は組織に入る代わりに記憶を封印した。プロジェクトXは、普通のサラリーマンを『エージェント』に変える実験よ」。信じられない話だったが、証拠は次々と出てくる。自分の銀行口座に、説明不能な大金が振り込まれていた記録。妻の知らない預金口座。すべてが繋がり始めた。
しかし、その夜、ホテルで女性と話している最中、ドアが蹴破られた。黒いスーツの男たち。女性が素早く拳銃を抜き、応戦する。「走って!」。太郎は廊下を全力疾走。非常階段を転がるように下り、路上に飛び出す。息を切らしながら振り返ると、遠くで炎が上がっていた。自分の泊まっていたホテルからだ。タクシーに乗り込み、運転手に「Any embassy, Japanese embassy!」と叫ぶ。頭の中は混乱。家族はどうなる? 会社はどうなる? そして自分は、本当にただのサラリーマンだったのか?
日本大使館に着いた瞬間、携帯が鳴った。妻から。
「太郎、聞いて。実は私も…」。
電話の向こうで、聞き覚えのない男の声が混じる。
「山田太郎、ゲームオーバーだ」。
線が切れた。太郎は大使館の床に膝をついた。外はスコールが降り始め、熱帯の雨がすべてを洗い流そうとしている。だが、彼の運命は、まだ始まったばかりだった。この先、太郎は組織の追跡を逃れながら、真実を探る旅に出るのか。妻の秘密とは? 15年前の夜に何があったのか? そして、普通のサラリーマン生活に戻れる日は来るのか。雨の中で、太郎はただ空を見上げた。
